【書評】中外日報2014年3月29日付牧英正著『差別戒名の系譜――偽書「貞観政要格式目」の研究』
2014年4月1日 火曜日
2014年3月29日付中外日報の書評を以下に掲載します。
一般財団法人同和教育振興会嘱託研究員 遠藤一
差別戒名の存在を知ったことは私にとって衝撃であった。もちろん、仏教が、歴史的にその時々の支配権力との関係を持つ以上、いくら、国王不拝とはいえ、そのような原則が国王側から守られるはずもなく、権力側に取り込まれることは充分に予想できた。しかし、この差別戒名(法名)はどうであろうか。現世における差別を現世で批判できなかったとしても、来世においての平等の救済を示すというのが仏教者として最低の条件ではないのだろうか。国法に従うとしてもそれは現世のことで、来世の救済を仏法に従って平等に示すことに何の問題があろう。
すなわち、王法・仏法の問題である。浄土真宗においては、戦時教学の「真俗二諦」として完成されたといわれている。竜樹の真俗二諦はあくまでも仏法がこの世に現れる姿を示したもので、仏法と国法をテーマとしたものではない。
戒名という点にしぼったとしても、それは、『増一阿含経』巻二一に、「もろもろの大河あり、…これらは大海にいたらば前の名前を棄て、ただ大海とのみ号す。…四姓あり。彼ら、如来の説くところの法と律とにおいて家を出て出家せば、前の名姓を棄て、ただ沙門釈子とのみ号す」とあるように、釈尊の弟子として、カーストからの解放を宣言するものであり、それが俗諦としての現れであった。
それが仏教本来のあり方であり、釈尊の教えのいのちであったと私は思う。しかしながら、日本において、大乗仏教は差別戒名を生み出した。
本書にも引かれた『禅門小僧訓』の著者「無住道人」は、最初、被差別民の戒名を庶人と差別して「卜男・卜女」と書くことに疑問を持っているが、『貞観政要格式目』と出あい、思いを変える。「仏経祖規になきことにても、国法なれば彼れによるべし」と、仏教本来になくても、その時代、その国のルールに従うのが仏教者で、仏法を一途に主張するのは、「我国にうときも恥べし」としていさめている。これを仏教のいのちと考えるか否かである。
著者の牧英正先生は、仏教学を主とするのではない。日本法制史を専攻されておられ、『人身売買』や『道頓堀裁判』(岩波新書)での業績を学会のみならず、社会に対しても示されている。
差別戒名への関わりは、その法制史家として、基本的人権の観点からであると述べられているが、もちろんすべての法制史家や歴史家が部落問題に言及しているわけではない。
それは先生のもつアカデミズムのあり方に対する思いであろうと推測する。本書では、『貞観政要格式目』を偽書として位置づけながら、時代の産物として中世の職能集団や被差別民についての考究のいとぐちを提示している。これは歴史資料を扱うべきものの態度を後進に示されたものである。
この真摯な研究態度に対して、仏教者はどのようにこたえるべきなのか。襟を正して読むべき書である。