下西忠高野山大学教授・高野山寺報書評『生と死の心理学』

2013年3月25日 月曜日

高野山大学 教授 下西 忠

「宗教とは静謐なる狂気である」とは、臨床心理の現場で長く取り組まれてきた先生であるからこその言であろう。日本というこの辺境の粟粒のような島国に仏教がやってきて、普遍的救済原理をもつ大乗仏教が花開いたということは誰もが承認することであろう。その普遍的救済宗教としての大乗仏教の狂気性という問題を立てられたことについては、敬服するしかない。「静謐なる狂気」としての仏教の普遍性は、われわれの狭隘な観念を打破し、不可知である普遍的真理へとわれわれを誘う。この運動が精神や知の範疇に止まらず、人間の活動に広がりだすことによって、社会が変わってきたと先生は述べられるのである。
評者は文学とくに仏教説話を中心に研究してきた者であるので、民衆が宗教の普遍性を受容していく過程には興味をもっている。しかし、所謂「仏の慈悲」として受け止められる教えを「静謐なる狂気」とする視点は持ち合わせてはいなかった。
たしかに、中世に現れる穢れ思想に対して、仏教の説く慈悲は、ひらりとかわしていくのである。仏の慈悲は当時社会常識としてあった穢れを超越していくのである。社会の原理を根底から変えていく普遍性、それを先生は「静謐なる狂気」と呼ぶのであろう。
もちろん、現代社会において問題となっているオウムをはじめとするカルトの「狂気性」も大きな課題であり、そのことも射程に入れられている。
前置きが長くなった。本書は、大正大学で臨床心理学を修められ、長年、臨床心理の現場で活動をされてこられ、智山伝法院の副院長を務められ、その研究業績をこのたびまとめられたのである。第Ⅰ部生の諸相、第Ⅱ部死の諸相、第Ⅲ部宗教、第Ⅳ部密教心理学への射程の四部から成っている。
本書の取り扱う事象は、あまりにも日常的な問題である。どこの家族にも、いや私の家族にも起こる問題である。そこに普遍的真理を見出そうとされているのである。これこそ、本来の宗教者のあり方であろう。あくまでも心理学的手法に即しながら、その脆弱な抽象性あるいは、普遍性を密教的真理から補強していかれるのは、強固な信念、あるいは信仰のゆえといえるだろう。
鎌倉時代末の真言僧である無住は、元寇の時代に日本が消えてしまうのではないかという危機感に、日本のアイデンティティとしての説話を蒐集し、『沙石集』を編纂した。どうも、その無住の危機感を本書に感じたのは時代のせいだけではないと思うが、皆様に一読を勧めるものである。

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